空じて空じて空じまくる【般若心経入門/松原泰道】

実家の本棚は、宝の山かもしれない。

光り輝く1冊の背表紙

お正月に義理の両親の家にお邪魔した。リビングのこたつでなんとなく本棚を眺めていると、1冊の本の背表紙に目を奪われた。

以前から学びたいと思っていた般若心経。「でも難しいんだろうなあ」という心の壁を柔らかくしてくれる「入門」という言葉。

「般若心経入門」を手に取り、パラパラと数ページ読ませてもらって気づいた。

また最高の本に出会ってしまった。

帰省の際は、ぜひ本棚を漁ってみることをおすすめする。素敵な出会い、もしくは再会が待っているかもしれない。

般若心経の現代語訳

ずっと知りたかった般若心経の現代語訳。本書の冒頭から引用させていただく。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみつたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう 度一切苦厄どいつさいくやく 舎利子しゃりし 色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき 受想行識亦復如是じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ 舎利子しゃりし 是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不減ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色声香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界むげんかい 乃至無意識界ないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明尽やくむむみょうじん 乃至無老死ないしむろうし 亦無老死尽やくむろうしじん 無苦集滅道むくしゅうめつどう 無知亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさつた 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたつこ 心無罣礙しんむけいげ 無罣礙故むけいげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顛倒夢想おんりいつさいてんどうむそう 究竟涅槃くきょうねはん 三世諸仏さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたつこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみやくさんぼたい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんしゅ 是大明呪ぜだいみょうしゅ 是無上呪ぜむじょうしゅ 是無等等呪ぜむとうどうしゅ 能除一切苦のうじょいつさいく 真実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみつたしゅ 即説呪曰そくせつしゅわく 羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼうじそわか 般若心経はんにゃしんきょう

般若心経入門|松原泰道

【現代語訳】

全知者であるさとった人に礼したてまつる。求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということも、増すということもない。

それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。(さとりもなければ)迷いもなく(さとりがなくなることもなければ)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の知恵の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。それゆえに人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。

往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。

ここに、知恵の完成の心を終わる。

般若心経入門|松原泰道

難解だ。

物質的現象には実体がないのに、実体がないからこそ物質的現象である?どうやら1度や2度読んだだけで理解できるものではなさそうだ。

読んで、覚えて、心に刻む。それを繰り返しながら自分に染み込ませていくしかない。

あらゆることを空じる

凄まじい速さで変わっていく現在、自分としっかり向き合う時間を持たないと、自分という人間を見失ってしまう。

目に見える物質的現象だけでなく、目に見えない自分の心の中心に分け入って、自分の中にある真実の人間性を開発する。そのために、あらゆるものを「空じる」。

空しいという事実をきちんと認識し、空しさを嘆くことから踏み込んで、空しさに徹することで、自分をつかむ。それが般若の知恵だ。

色不異空 空不異色

色はすべての物質的現象。私たちの肉体も色である。まずはそれを空じる。

どんなに美しいものでも永遠ではない。いずれなくなるという空しさを見つめる。色は空に異ならず。

逆に、永遠に美しいものはないのだと見据えながら、目前の美しいものを素直に美しいと見る。空は色に異ならず。

否定の否定の先に見える景色は、これまで漫然と見ていた景色とは全く違うものだ。毎日そんな景色を見ることができれば、より深く、日常の色を見ることができそうだ。

色即是空 空即是色

物質的現象が「ある」ように見えるのは、それが単一にあるのではなく、様々なものが助成し合い総合され合成された現象としてあるからだ。

物質的現象の実体はなく、空である。しかし茶道のいう「静寂」は、実体のない物質的現象に美を発見する。空もまた色。著者は空を「充実したゼロ」と表現している。

受想行識亦復如是

色である人間の身体も空であり、人間の精神を形成している「受」「想」「行」「識」もまた空。

是諸法空相 不生不滅 不苦不浄 不増不減

「法」も物質的現象のこと。すべて存在するものには実体がないのだから、生じることも滅することもない。

人間は必ず死ぬが、言ったこと、したことは永遠に生き続ける。死ぬ者の中に、終わりあるものの中に、生き続けて死なない永遠なものを見つけることが大切。身びいき、身勝手を離れたら、必ずそれがわかる、というのがここの教えだ。

存在するものには美醜がある。それは見る側の勝手な判断。自我抜きの「空」で見れば、垢とか浄はない。汚いとか汚くないとか判断する自分そのものが、不苦・不浄のどちらかに足を引っかけて選り好みをしている限り、そこから解放されることはない。

同じように、自分に執われて増減の価値判断もする。自分を抜けば、増減もない。

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界

空の立場から見れば、物質的現象も、感覚も、表象も、意志も、知識も、眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心も、かたちも、声も、香りも、味も、触れられる対象も、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくない。

空じて空じて空じつくす。果たしてこんなことが実生活でできるのか。著者は言う。「偏見を去れ」と。目で見た、耳で聞いた、体験したから間違いない。自分の言うことが正しく、他は間違っている。このような考えが、他人を、世界を敵だと錯覚させてしまう。

偏見を一度真っ向から木っ端微塵に打ち砕かなければ、豊かな人間性は育たない。偏見とは自我だ。ここでも自我を捨てることの大切さが説かれている。

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得

無明は、人生の真理に対する正しい知恵のないことで、苦悩や不幸の根本原因となる。人間の根本には無明があり、ことあるごとに顔を出す。

根本である無明をなくそうとするとかえって疲れてしまう。なくそうとするよりも、出てきた時にその都度摘み取り、整頓することが大切だ。

そして生・老・死をも空じる。「生まれたら必ず老いて死ぬ」という決して逃れられない鉄則を否定するのではなく、生・老・死の現実界に生きていながら、それらに好き嫌いの感情で執着することなく、素直に老い、素直に病み、素直にさよならをする生き方だ。

お釈迦さまの教えの根本である苦・集・滅・道も空じる。たくさんの知識を詰め込み、口先ばかりをなめらかにしていないか。知ることだけの世界にとどまっていないか。知った上でそれを空じなければ、本当の知恵は得られない。

何のために学ぶのか。学んだことを何に生かすのか。どんな人間になりたいのか。たしかな答えをつかむためには、もっともっと学んで、もっともっと空じる必要がありそうだ。

自分中心にまとめ上げた知識を一度根こそぎ取り除いて、「無」にすることで初めて「自我」が消える。自我が消えれば、利己心も消える。利己心が消えれば、そこに損得はない。

空じた先に居る、なりたい自分

何もかも空じつくせば、自分のものは何一つない。そこには「何一つない」という「充実した空」がある。そこにある般若の知恵を体得するために、今日からすべきこと。それは自我をとことん空じること。

心が波打つ出来事があったら、まずはそこに自我を探す。自我を見つけたら、空じる。

それを繰り返す。繰り返すと心に決める。自分の心の底にある真の人間性にたどりつけると信じて生きる。

明日も、自我を空じ、他者に貢献しよう。修行はまだまだこれからだ。

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